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生産性中毒 - Productivity Addiction

生成AIによるコード生成で、思いついたアイデアや仮説をあっという間に具現化できてしまう。フィードバックループが高速になり、次から次にプロンプトを与えてプログラムを生成できてしまう。コード生成がおそろしいのは、単純なスロットマシンである以上に、そこで生成されるものは機能するもの、役に立つものであることだ。役に立ってしまうから、もっと役に立つものが欲しいと次の生成を加速させてしまう。欲望を抱いた瞬間にそれが実現される、欲望の加速装置だ。

考えている暇があったらちょっとでも役に立つものを早く作って結果を得ようじゃないかと、そうやって欲望の加速装置は背中を押してくる。「どうしたの?今何も生み出してないよ?」と、立ち止まって考えることを時間の損失だと感じさせる。これが、実際に何らかの価値を生んでしまうことが、欲望に逆らうことを難しくする。だってそのほうが実用的で、合理的でしょう?と資本主義的精神は生産への没頭を正当化する。この精神状態は生産性中毒 (Productivity addiction) と呼ばれているようだ。

機能すること、役に立つことを重視するのはまさしくプラグマティズム(実用主義)だ。欲望の加速装置としての生成AIは、単なるツールの域を超え、私たちの思考のプロセスそのものをプラグマティズムへと強制的に書き換えている。そして、プラグマティズムへの傾倒により失われるものは哲学だ。加速する生産プロセスのなかで、いまやつくる時間はボトルネックではない。ではボトルネックはどこに移動したのかといえば、「何をつくるか」を考える時間だ。そして、考える時間削るべきコストに変わっていく。生産性の追求は、何かをつくれるはずの時間で立ち止まって考えるということを解決されるべき問題にする

「常に何か有益なものを生産し続けなければならない」というプラグマティズムに突き動かされた強迫観念。それに身を委ねると、ただ考えるために時間を使うということができなくなっていく。合理性や実用性にあえて逆らい、本質や価値を問うための非生産的な時間を取り戻すために必要なのは、恐怖を乗り越える意志と勇気だ。非生産的であるために、FOMO (Fear Of Missing Out) やFONO (Fear Of No Output) を振り払わなければならない。何も生み出さない時間を確保することが、生産性に支配された世界に美学と哲学を取り戻す最初の一歩のはずだ。