Marginalia

IT系勉強会のいまと、集うということについて

今年に入ってから、オフラインのIT系勉強会や開発者カンファレンスがじわじわと復活してきているが、興味深いと思っているのは、開催にあたってより大きなコストのかかるカンファレンス規模のイベントのほうが、復活のスピードが早いように思われることだ。

逆に小規模の、駅名+技術のような勉強会のほうが復活していないものが多いように感じる。これには会場確保の難しさやオーガナイザーの状況の変化などいろいろな要因が簡単に思いつくが、特に考えてみたいのは「集う」ということそのものの困難さに気付かされているのではないかということだ。

人が集まって何かをイベントを開催するためには、そこに人を「集わせる力」が必要である。大規模なカンファレンスと小規模の勉強会の大きな違いは、その「集わせる力」に対する投下コストにあると思う。より商業的な色合いを持つイベントであるほど、そのコストの多くは「集わせる力」の増強に使われる。集客のための宣伝、コンテンツの充実度、参加する魅力度を増すためのあれやこれやなど、そこにコストを払っている。だからこそ、そうしたコストがかかったカンファレンスは休日であっても、遠隔地であってもそこに出向こうと人に思わせることができる。

一方、コロナ禍以前の勉強会の多くは、オフィスへの通勤という外力によってすでにそのエリアに集わされている人々を、すこし寄せ集める程度のことからスタートできていた。つまり、本来であれば「集わせる」ために投下する必要があったコストを払わずに済む状態で存続していたのではないかと思う。そしてそのコストは、リモートワークが普及した今、同じ場所で同じようにイベントを開催するためにはもはや逃れられないものになったのではないか。会社から家に帰る途中の寄り道だからこそ「行ってもいいか」と思えていた場に、わざわざそのために電車に乗って街に出るめんどくささに釣り合うほどの「集わせる力」があったのかどうか。そこに目を向けざるを得ない時勢なのではないかと思う。

必要なだけのコストを払うことで乗り越えることはできるし、今でもそういうオフラインイベントは出てきている。そういうところには補欠が数十人出るような高倍率になっている様子だ。その多くは企業の技術広報戦略の一環としてコストを捻出しているように見えている。

では非営利の立場でコストを払うのが難しい場合はどうするか。どうすれば「集わせる力」にコストを払わずに済ませられるかということを考え直す機会でもある。

オンラインイベントは家から参加できるという点で有利だが、それはそれで別のフィールドでの可処分時間の奪い合いに参戦することになる。NetflixやYouTubeを見るより価値があると思わせられるかどうかがこの場合の「集わせる力」だろう。

すでに人が集っている場所に相乗りするという戦略でいくならば、オフィスではなく居住地の近辺で開催するということもできる。都心ではなく住宅が多いエリアで、リモートワーク終わりや休日に少し散歩程度で寄って帰れるのであれば、集わせるためのコストは少なくて済む。最近僕が始めた隅田川.devもそういうコンセプトである。ご近所さんで寄り合う、そこからコミュニティを再構築してみようという考えでやっている。

どの大きなカンファレンスも最初は、そのオーガナイザー周辺の小さなコミュニティから始まり、だんだんと大きくなっていったものであるはずで、最初から大きかったわけではないのに、コロナ禍を経て復活していくのが大規模なものからであったということの寂しさと、そうだとすればこれから新たなコミュニティはどうやって生まれていけばいいのかということへの危機感とがないまぜになっている近ごろだ。理屈で考えればそうなっておかしくないのであるが、心情としては、やはり僕は小さな場を取り戻したいと思う。それを感じられるまでは、僕のコロナ禍はまだ明けていない気がしている。