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テクノクラート的政治の失敗 ―『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

マイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んで、これまで持っていなかった視点に出会うことができた。

この本の大きなテーマは、ブレグジットやドナルド・トランプの当選といったポピュリズム的現象を発生させるに至った、「勝者」と「敗者」の分断である。その原因のひとつとして本書で強調されるのは、「テクノクラート的」な政治のあり方である。

ポピュリストによる抗議を邪悪であるとか見当違いであるなどと解釈すれば、労働の尊厳をむしばみ、多くの人が見下され、力を奪われていると感じるような状況をつくり出した政治エリートの責任を免除することになる。この数十年にわたる労働者の経済的・文化的地位の低下は、避けがたい力の帰結などではない。主流派の政党とエリートによる統治手法の帰結なのだ。これらのエリートはいまや、トランプをはじめ、ポピュリストの支援を受けた独裁者が民主的規範に及ぼす脅威を懸念している。それは当然のことだ。ところが彼らは、ポピュリスト的反発へと至る怒りをあおることに自らが果たした役割がわかっていない。われわれが目撃している激動が、歴史的規模の政治的失敗への反応であることを理解していないのだ。

国民の支持を取り戻したいと願う前に、これらの政党は市場志向のテクノクラート的統治手法を見直す必要がある。また、より捉えがたいが同じく重要な問題──この数十年間の不平等の拡大に伴う成功と失敗に対する態度──について再考する必要がある。新しい経済のもとでうまくいかなかった人びとが、勝者に軽蔑のまなざしで見下されていると感じる理由を問う必要があるのだ。

イデオロギー的な対立、共同体の中で本来の政治的議論によって調停されるべきだった問題を、「賢い」方法によってなかったことにしようとするテクノクラート的な考え方が、今の世の中にはびこっている。そのことについて、この本を読みながら考えたことを書いておきたい。

テクノクラート的とは

テクノクラート的な統治手法においては、多くの公共問題が、一般市民には理解できない技術的な専門知識の問題として扱われた。これが民主的議論の幅を狭め、公的言説の言葉を空洞化させ、無力感を増大させた。

たとえば地球環境、医療、福祉、経済などあらゆる公共的な分野の社会問題は、高度で複雑なものとして一般市民には理解できない専門家の領域とされつづけている。「科学的」で「論理的」である専門家の言説は政治的イデオロギーの対立とは無縁の中立さを持つように扱われてきた。「AIなら中立的な政治的判断ができる」というような言説はその最たるものだろう。

テクノクラート的な政治構想は、市場への信頼──束縛のない自由放任資本主義では必ずしもなく、市場メカニズムは公益を実現する主要な手段であるというより広い信念──と固く結びついている。政治に関するこうした考え方は、次のような意味でテクノクラート的だ。つまり、それは実質的な道徳論議をめぐる公的言説を無力化し、イデオロギー的に競合しそうな疑問を、あたかも経済効率の問題であり、専門家の領域にあるかのように扱うのである。

このようなテクノクラート的な考え方は能力主義(メリトクラシー)的な構造にも深くかかわっている。政治の場に立つのにふさわしい能力があるということについては、否定されるものではない。古くから有能な者が統治すべきとされてきた。その有能さとは道徳的判断にかかわるものだった。だが、

現代のテクノクラート・バージョンの能力主義は、能力と道徳的判断のつながりを断ち切ってしまう。経済の領域では、共通善はGDPによって定義され、人びとの貢献の価値は彼らが販売する財やサービスの市場価格にあるとされるにすぎない。政治の領域では、能力はテクノクラート的専門知識を意味するとされる。

本来の民主主義的な政治の場は、公共における道徳的言説、つまり「われわれにとって何が善か」という議論が中心となるはずだった。だが、それら公益の定義と実現を「賢い」市場メカニズムとその専門家である経済学者に外注するようになった。

次のような事態にそれが見て取れる。政策顧問として経済学者の役割が大きくなっていること。公益の定義と実現をますます市場メカニズムに頼るようになっていること。そして、政治的議論の中心となるべき道徳的・市民的な大問題を公的言説が扱えていないこと。すなわち、不平等の拡大をどうすべきか、国境の道徳的意義とは何か、労働の尊厳を生み出すものは何か、われわれは市民としてお互いにどんな義務を負っているか、といった問題だ。

そのようにして道徳的・政治的判断、つまり公共的な善についての議論に見ないふりをして生まれた無防備な空白地帯に目をつけたのが、力を奪われた一般市民の復讐心を薪にして燃え上がるポピュリズムだった。

道徳的・政治的判断を、市場あるいは専門家やテクノクラートに外注できるかのように公的言説を展開してきたせいで、意味や目的をめぐる民主的議論は空虚になった。公共的な意味のこうした空白を絶えず埋めているのは、粗暴で権威主義的なアイデンティティと帰属意識だ──宗教的原理主義あるいは声高なナショナリズムという形で。

これが、こんにちわれわれが目にしている状況だ。四〇年にわたる市場主導型のグローバリゼーションが、公的言説を空洞化し、一般市民の力を奪い、ポピュリストの反発を引き起こした。この反発が、不寛容で復讐心に燃えるナショナリズムによって、無防備な公共の広場を覆い隠そうとしているのだ。

テクノクラシーと「敗者」

テクノクラシー(技術家政治)の展開によって、社会はエリートとそれ以外の労働者階級に分断される。テクノロジーやグローバル経済の発展の恩恵を受ける「賢い」人々と、それについていけない「能力不足」の人々という世界の見方が定着した。

テクノロジーや外部委託に起因する失業に伴って、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意が低下していると感じられるようになった。経済活動がモノをつくることから資金を運用することへと移行し、ヘッジファンド・マネジャー、ウォール街の銀行家、知的職業階級などに対して社会が途方もない報酬を気前よく与えるようになると、昔ながらの仕事に払われる敬意は脆く不確かなものになった。

だが「賢い」人々はそんな不平等も「賢く」解決しようとしてきた。それは落ちこぼれてしまった人々も教育によって競争に参加できるという主張、成功できるかどうかはあなた次第ですよ、と機会の平等を解決策としてきた。

これこそ、ブレグジット、トランプ、ポピュリストの反乱へと至るこの数十年のあいだに、リベラルで進歩的な政治によってなされた基本的主張だった。つまり、グローバル経済が、まるで人間の力の及ばない事実であるかのように、どういうわけかわれわれにのしかかり、頑として動こうとしないというのだ。政治の中心問題は、そうした事態をいかにして変革するかではなく、いかにしてそれに適応するかであり、専門職エリートの特権的集団から外れた労働者の賃金や雇用展望への壊滅的影響をいかにして緩和するかだった。

その答えは、労働者の学歴を向上させ、彼らもまた「グローバル経済の中で競争し、勝利を収める」ことができるようにする、というものだった。機会の平等が最優先の道徳的・政治的プロジェクトだったとすれば、高等教育の間口を広げることは、最も重要な政策的責務だったのである。

教育によって平等に機会を与えているのだから、そこで落ちこぼれる人々には能力がないのだ。能力にはそれに見合った報酬があるべきで、市場がそれを決定する。これは人為的なものではなく神の見えざる手、というわけだ。だから、テクノクラートたちにとってほとんどの問題は教育の問題である。

ポピュリスト的感性を持つ作家のトマス・フランクは、不平等の救済策としてリベラル派が教育に焦点を当てていることを批判した。「リベラル階級にとっては、あらゆる経済的大問題が実は教育問題である。つまり、適切なスキルを身につけ損ね、将来の社会で必要となることは誰でもわかる学歴を築いていない敗者の失敗だというのだ」。

フランクはこう述べる。

それは、実のところまるで答えになっていない。成功している側が、自らが占めている有利な立場から申し渡す道徳的判決なのだ。知的職業階級は手にした学歴によって定義されるため、彼らが大衆に向かって、あなたに必要なのはいっそうの学校教育なのだと語るたび、「不平等は制度の失敗ではない。あなたの失敗だ」と言っていることになる。

賢い vs 愚か

学歴があり専門知識を持つエリートにとる統治、それに反発する粗暴なナショナリズムという構図を、テクノクラートは「賢い vs 愚か」というレトリックで政治的立場の違いとして利用しようとした。

いつの時代も、政治家やオピニオンリーダー、広報担当者や広告主は、説得力のありそうな判断や評価の言葉を手に入れようとする。こうしたレトリックは通常、評価にまつわる対比を利用している。つまり、正義 vs 不正義、自由 vs 不自由、進歩主義者 vs 反動主義者、強い vs 弱い、開放的 vs 閉鎖的といったように。ここ数十年で能力主義的な思考様式が広まるにつれ、評価にまつわる対比の主流は、 賢い vs 愚か、となっている。

政策の正しさは多くの利害関係の中で政治的議論の上で追求する必要がある。しかし彼らは正しさよりも「賢い」ことに説得力をもたせようとした。政策に対する意見の相違が起こるのは、道徳的・政治的イデオロギーの対立ではなく、「賢い」かそうでないかである。だったら「賢い」政策を選ぶのが当然だというわけだ。

クリントンもオバマも、彼らの有望な政策は「行なうのが正しいだけでなく、行なうのが賢明な政策」だとしばしば主張した。こうしたレトリックをチェックしてわかるのは、能力主義の時代では正しいことよりも賢明なことのほうが説得力を持っているということだ。

当然このような姿勢は、「愚か」であるとされる側の自尊心を更に逆撫でしてきた。自分たちと異なる立場に対する蔑視、そしてそれを恥じることもなく正当化するレトリックに、一般市民の怒りは燃え上がる一方だった。

エリートたちは、彼らの「賢明な」政策の党派性だけではなく、「賢い」と「愚か」をめぐる執拗な語りに現れる傲慢な態度にも気づいていないようだった。

つまり、人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ。欧米では、学歴が低い人びとへの蔑視は、その他の恵まれない状況にある集団への偏見と比較して非常に目立つか、少なくとも容易に認められるのである。

高学歴のエリートも低学歴の人びとに劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。「むしろ、偏見の対象が異なっているのだ」。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが、低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。

「賢い」政治のためのテクノクラート

政治が「賢い vs 愚か」で語れるようになるほど、テクノクラート的な言説の存在感は大きくなっていく。政策の議論に「愚か」な意見はノイズであり、「賢い」人々だけで決めていくことが正しいことのようになっていった。

だが、ノイズ扱いされる意見の衝突こそが、民主主義的政治の目的にあるものだ。そこを「賢い」アイデアで回避するテクノクラート的言説は、じわじわと政治の本来の力を蝕んでいった。

能力主義的エリートにとって、「賢い」と「愚か」のレトリックは、道徳やイデオロギーをめぐる意見の衝突に対する非党派的な代替策を示しているように見える。だが、そうした意見の衝突は民主政治の核心にあるものだ。党派的な意見の衝突というやっかいな領域を跳び越えようとする努力があまりに決然たるものだと、正義や共通善の問題を政治に回避させるテクノクラート的言説が導かれかねない。

たとえば健康問題、国民の肥満や生活習慣病を解消したいとなれば、経済学者はインセンティブによる市場の刺激を訴えてきた。クリーンエネルギー、働き方、さまざまな社会的目標を市場メカニズムで解決しようとしてきた。このテクノクラート的な政策は、イデオロギーな論争を避けるのにぴったりだった。だが、その反面として、政治の場から、一般市民を説得するという習慣を失わせた。

テクノクラート的な政治手法の欠点の一つは、意思決定をエリートの手に委ね、したがって普通の市民の力をそいでしまうことだ。もう一つは、政治的な説得というプロジェクトの放棄である。エネルギーを節約する、体重に気をつける、倫理的な商慣行を守るといった責任ある行動を取るよう人びとをインセンティバイズすることは、それを人びとに強要することの代替策であるばかりではない。それは、人びとを説得することの代替策でもあるのだ。

「賢い」エリートたちは、政治的な意見の不一致は前提となる事実の共有ができていないせいに違いないと考えた。同じ事実を受け入れさえすれば、そこから合理的に「賢い」解決策に合意できるだろうと。科学的に考えれば意見は一致するはず。しかし、それは大きな間違いだった。

政治的な意見の不一致の原因が、事実に向き合うこと、あるいは科学を受け入れることの単純な拒絶にあると考えるのは、政治的な説得における事実と意見の相互作用を誤解している。われわれはみな、政治に先立つ基盤として事実について合意し、それから意見や信念について議論すべきであるという考え方は、テクノクラート的なうぬぼれだ。

事実について意見が一致しさえすれば、政策について理にかなった議論ができるというテクノクラートの信念は、政治的な説得というプロジェクトを誤解するものである。

事実認識は、道徳的立場、正義についての信念、権力と信頼、さまざまなものを基盤としているのである。事実が意見に先立つのではない。意見が事実に先立つのだ。

たとえば、気候変動の緩和策を指示したがらない人々は単に科学的な知識が不足しているわけではない。気候変動に関しても党派的な分断があり、それは事実や情報ではなく政治にかかわる問題だ。科学について啓蒙が進めば意見が一致して団結するだろうという想定は間違っている。

これらの問いは、専門家が答えるべき科学的問題ではない。権力、道徳、権威、信頼にまつわる問題、すなわち、民主社会に生きる市民にとっての問題なのだ。

過去四〇年にわたって政治を担ってきた高学歴の能力主義的エリートが犯した失敗の一つは、こうした問題を政治的議論の中心にうまく据えられなかったことだ。いまや、われわれ自身が民主主義的規範が生き残るかどうかに疑問を抱いている以上、能力主義的エリートのおごりやテクノクラート的な視野の狭さへの不満は、些細な問題に思えるかもしれない。だが、彼らの政治こそ、現在へとつながった政治であり、権威主義的ポピュリストにつけ込まれる不満を生み出した政治なのだ。能力主義とテクノクラシーの失敗に向き合うことは、こうした不満に取り組み、共通善の政治を再び構想するために欠かせない一歩なのである。

貢献的正義

このような分断のなかで取り残された人々が苦しんだのは単純に賃金が少ないことだけではない。自らが社会に対して貢献できる余地がないという無能感だ。

四〇年間にわたるグローバリゼーションと不平等拡大のせいで取り残された人たちは、賃金の停滞だけに苦しんでいたのではない。彼らが直面し、恐れたのは、時代から取り残されることだ。自分が暮らす社会は、自分が提供できる技能をもう必要としていないように見えたのだ。

失業の痛みは、たんに失職により収入を絶たれることではなく、共通善に貢献する機会を奪われることだ。「失業とは、やることがないということ──それは、ほかの人たちと何の関係も持たないということです」と彼は説いた。

これまでのテクノクラート的政治では分配によって不公平を解決できると考えてきた。それは人々を市場における「消費者」としてしか見ていない。しかし彼らが求めていたのは、「生産者」として貢献し、社会に承認される機会を取り戻すことだった。グローバリゼーションに取り残されることで失われたものは収入だけではなく、生産者としての尊厳でもあった。

現代のリベラル派は、労働者階級と中流階級の有権者に、分配的正義を増すことを提案してきた。つまり、経済成長の果実をもっと公平に、もっと十分に手に入れられるようにすることを提案したのだ。しかし、有権者がそれより欲しがっているのは、より大きな貢献的正義──他人が必要とし重んじるものをつくり出すことに伴う社会的な承認と評価を得る機会なのである。

消費者であり、生産者であるというわれわれのアイデンティティを仲裁するのが、政治の役目だ。ところが、グローバリゼーション・プロジェクトは経済成長の最大化を追求した結果、消費者の幸福を追求することになり、外部委託、移民、金融化などが生産者の幸福に及ぼす影響をほとんど顧みなかった。グローバリゼーションを支配するエリートは、このプロジェクトから生じた不平等に立ち向かわなかっただけではない。グローバリゼーションが労働の尊厳に与えた有害な影響に目もくれなかったのだ。

であればなぜこんにちの政治では経済成長と分配に舵を切り続けるのだろうか。それは経済成長という論点が道徳的・政治的意見の対立を生みにくいからだ。分配には元手が必要だが、より多く分配するためにはより豊かでなければならない。であれば、経済が縮小するよりは成長したほうがいい。この点においてはイデオロギーの対立は生まれにくいように感じられる。つまり、経済が成長さえしていれば、道徳的な議論を避けられるように見えるのだ。ここにもまた、市場への信頼と政治的議論の回避という、テクノクラート的な姿勢が見てとれる。

経済成長を公共政策の最優先の目的とするのは、それが物資的恩恵を約束するだけでなく、現代のように対立に満ちた多元的社会にとってとりわけ魅力的だからだ。経済が成長していれば、道徳的に賛否両論ある問題について議論を戦わせる必要がなさそうに見えるのである。

経済成長の果実をどう分配するかについては、どうしても意見の不一致が生じる。だからこそ、分配的正義をめぐる議論が必要なのだ。ところが、経済のパイは縮小するよりは拡大するほうがいいという点では、誰もが合意できる。もしくは合意できるように見える。

だが、それは幻想だった。

それは、グローバル化し、能力主義的で、市場主導の時代にふさわしい理想主義だった。勝者の耳には心地よいが、敗者にとっては侮辱的だ。その時代は、二〇一六年に終わった。ブレグジットの実現とトランプの当選、それにヨーロッパにおける極端な国家主義・反移民主義政党の台頭が、グローバリゼーション・プロジェクトの失敗を告げたのだ。いまや問われているのは、どんな政治的プロジェクトがそれに代わるかである。

つくる者と受け取る者

こうして見てきたように、能力主義的・テクノクラート的・市場主義的な政治プロジェクトは失敗として時代が進もうとしている。その反省として、これまで軽視され続けてきた人々の「生産者」としての尊厳、社会に貢献し承認される機会を増やすことが必要だというのが、サンデルの主張である。

こんにちの経済において誰がつくる者であり、誰が受け取る者かという議論は、とどのつまり、貢献的正義をめぐる議論だ。つまり、どんな経済的役割が名誉と承認にふさわしいかという議論である。この問題を徹底的に考えようとするなら、共通善への価値ある貢献として大切なのは何かという公共の議論が必要だ。

そのためには、政治の場、公共の言説空間が、道徳的議論に取り組む習慣を取り戻す必要がある。

過去四〇年にわたり、市場主導のグローバリゼーションと能力主義的な成功概念が相まって、こうした道徳的絆を破壊してきた。グローバルなサプライチェーンと資本の流れ、それらによって培われた国際人意識のせいで、われわれは同胞である市民にあまり頼らなくなり、彼らの仕事に感謝しなくなり、連帯の呼びかけに反応しなくなってきた。能力主義的選別が、成功は自らの手柄だとわれわれに教え、われわれの恩義の意識を壊してきた。われわれはいま、そのような破壊が生み出した怒りの嵐の真っただ中にいる。労働の尊厳を回復するために、能力の時代が破壊した社会の絆を修復しなくてはいけない。

能力の時代が破壊した社会の絆の修復、これを実現できるかどうかが、次の時代の政治的プロジェクトの方向性を左右するだろう。