岩波新書『信頼と不信の哲学入門』という本を読んだ。
キャサリン・ホーリーという哲学者による、信頼と不信についての一般書。非常におもしろかった。
信頼とは何か
ホーリーによると、信頼とは依拠 (reliance) である。わたしたちが人々を信頼するとき、わたしたちはその相手に依拠している。依拠するということは、その相手のおこないをあてにして何かをおこなうということである。
しかし、信頼ではない依拠もある。カーテンや椅子、目覚まし時計をあてにするというとき、それは信頼ではなく機械的な依拠という。人間相手であっても、風除けになる群衆への依拠は信頼ではない。相手がそのことを考慮に入れてくれるだろうとは思っておらず、群衆がばらばらになって風除けにならなくなっても、それを裏切りだと思うことはない。ただ相手の存在から利益を得ることを望んでいるだけである。
つまり、信頼と機械的な依拠の違いは、信頼する側の期待と、期待を裏切られたときの反応に関わっている
コミットメント説
ホーリーは信頼についてコミットメントをその本質的な契機とする。
わたしたちが人々を信頼するのは、その相手が自分のコミットメントを果たすだろうとあてにする場合である。
これを言い換えると、完全な信頼に至るには、能力に対する信頼と意図に対する信頼の両方が必要ということである。
たとえば、仕事をきちんと果たすだろうと同僚を信頼する場合、その同僚がその仕事に必要な能力を持っていることへの信頼と、それらの能力を実行しようとすることへの信頼が必要になる。
善意があっても十分な力量がないと思う=能力を疑うなら、わたしからその同僚への信頼は損なわれる。逆に、同僚が怠け者であったり不誠実であると思う=意図を疑うなら、わたしからその同僚への信頼は損なわれる。
つまり、信頼性=信頼に値することには、能力と善い意図の両方が要求される。そして、自分に課せられるコミットメントを果たすことこそが、信頼してくれる人々が期待することである。
ゆえに、信頼に値する人に求められることは、
- 新たなコミットメントを引き受けることに慎重になること
- すでに引き受けたコミットメントを果たすことを決意すること
- 自分が果たせないコミットメントにはノーと言える勇気を持つこと
である。
信頼を得ること、信頼に値すること
信頼は、その相手が信頼に値する場合には正しいことであるが、信頼に値しないものを信頼することは、裏切り、失望、搾取の元となる。信頼に値する相手であっても、そのコミットメントを誤解すると信頼は誤って働く。
もしわたしがあなたの希望を知らず、気にもかけず、あなたを助けられない、あるいは助けるつもりはないとはっきり言おうとしていたなら、あなたがわたしを信頼するのは間違いだが、…信頼に値しないわけでもない。このような状況では、あなたはわたしを信頼すべきでも不信を抱くべきでもない。わたしがあなたを助けないことは予測できるが、それを信頼の裏切りと考える必要はないのだ。
信頼に値する相手のコミットメントに依拠するとき、その信頼は正しいものとなる。しかし、何もコミットメントを引き受けていない相手のおこないに依拠することは間違った信頼であり、その依拠が失敗に終わったとしても裏切りだと思うべきではない。そこにコミットメントがない限り、信頼することも不信を抱くことも間違っている。
信頼に値することそれ自体に価値はあるのか?
価値があるのは信頼に値することか、それとも信頼を得ることだろうか?
わたしたちがコミットメントを果たすという実践…は、本質的な価値を持つ信頼性の一種である。
引き受けたコミットメントを果たす誠実さ=ひとつの信頼性は、他者からの信頼を引き寄せることで実践的価値をもつ。
信頼性のおかげで、あなたは他の人から信頼されるに値するようになり、それを効果的に示すことができれば、信頼はあとからついてくる。
信頼に値することを他者に示すことによって、コミットメントを信頼してもらえるようになる。そうして他者からの信頼が得られることによって、多くのやりがいあることの追求が可能になる。
だが、ホーリーはこう述べる。
信頼性は個別のケースごとに示すことはできない。あるいは、最も重要なケースでもできない。
信頼は、信頼される側が信頼に値することを直接示すことができない状況において最も価値があり、最も危険なものとなりうる。
信頼性が最も重要なケースは、信頼される側が信頼に値することを直接示すことができない状況である。どういうことか。
信頼される側が信頼に値することを直接示すことができる状況とは、わたしの信頼性の証明を裏付ける独立した情報源をあなたがもつ場合である。「わたしはコミットメントを果たす能力と意図を持っています」と証明したとして、それが正しいことを確かめるには、裏取りのための情報源が必要になる。
だが、あなたがそのような情報源をもつのなら、あなたがわたしを信頼するかどうかはそれほど重要ではない=価値が低い。そのような人物であると「知っている」なら、機械的に依拠するのとあまり変わらないからだ。
一方、信頼される側が信頼に値することを直接示すことができない状況では、なんとかしてわたしが信頼に値することを示し、わかってもらうしかない。しかし、その証明を聞いてもらうためには、わたしが信頼される必要がある。このような状況での信頼は、ハイリスク・ハイリターン=最も価値があり、最も危険なものとなる。
つまりここには、信頼に値することを証明するためには信頼される必要があるという、鶏卵問題がある。どうすれば信頼に値するという評価を受けられ、信頼を得られるのだろうか。
だからこそ一貫性が重要なのだ。
わたしたちは互いの信頼性を部分的に過去の実績で判断する。
わたしたちは、過去から現在までの実績から帰納的に推論される信頼性によって、その相手が信頼に値するかどうかを判断している。ここには「対応バイアス」、「根本的な帰属の誤り」の影響がある。人々の行動がその人自身の内在的な性向に起因する度合いを過剰に評価し、外的要因や偶然に起因する度合いを過小に評価する傾向のことだ。
人々が一見して信頼に値する行動をとり、誠実に話し、約束を見るのを見たとき、わたしたちはその人々が基本的に信頼に値する人々であると結論づける可能性が高い。
逆に、人を欺いたり、コミットメントをやり遂げなかったりするのを目の当たりにすると、わたしたちはそれを性格的な欠陥、つまり信頼に値しないせいだと考えてしまう。
このことから、信頼を引き寄せるときは信頼に値するということになり、疑いを引き寄せるときは信頼に値しないという長期的な実践的影響が生じる。
引き受けたコミットメントをいつも果たしているという実績、信頼を引き寄せるような行動の積み重ねは、その人が信頼に値するという評価につながる。逆に、コミットメントの遂行に疑いが生まれるような実績によって、信頼に値しないと評価される。わたしたちのバイアスは、たとえその実績を生んだ実際の要因が外的要因だったとしても、簡単に性格や能力といった要因へ帰属させてしまうのだ。
だからこそ、実行できる見込みのないコミットメントを避けることが重要である。そして、やむをえず引き受けてしまったコミットメントについても、それを果たすことが求められる。だが、コミットメントを果たすことには個人的な犠牲を伴い、同じコミットメントでも負担の重さは人により異なり、困難な状況にある人ほど重い。
あなたが困難な状況にある場合、コミットメントを果たすことがより難しくなるかもしれないし、他人があなたの困難を認識することも難しくなるかもしれない。むしろ、単にあなたを無神経で信頼に値しない人間だと見なしてしまうかもしれない。信頼に値するかどうかの判断は慎重に行わなければならないのだ。
俗に「信頼貯金」と呼ばれるものの正体は、この一貫性だろう。だが「貯金」という比喩に反して、これは自由に切り崩せるようなものではない。一度能力か意図を疑われてしまったら、信頼に値しなくなってしまう。一度失うと取り戻すのは難しい。なぜなら個別のケースではなく、一貫性こそが信頼性の判断材料だからだ。
小さな約束、有言実行、ルールの遵守、そうした「日頃の行い」が、「信頼に値することを直接示すことができない状況」における最も価値のある信頼を得るための判断材料となる。だが外部の状況によってコミットメントが果たせなくなることもある。自身についてはそういうことを減らすように、コミットメントを引き受けることに対しての慎重さが必要である。また、他者に対しても、コミットメントが果たされなかったからといって、バイアスに任せてすぐに信頼に値しないと判断してしまわず、その人を取り巻く状況になにか困難さがあったのではないかと考慮する慎重さが必要である。
慎重さは、正しい「信頼」と「不信」のために欠かせない態度である。