ネイサン・クリック著『プロパガンダ入門』という本を読んだ。

タイトルでぎょっとして買ってみた。読む前のイメージでは、SNSやマスメディアにはびこるプロパガンダから身を守るような本なのかと思っていたが、中身はまったく違っていた。むしろ、この本は「プロパガンダを民主化」し、よい民主主義社会を作っていくための技術としてプロパガンダを身につける指南書だった。
私が主張したいのは、プロパガンダは何も特別なものではないということだ。それはただ、説得という手段を、テクニックによって方向づけ、テクノロジーによって増幅させ、巧みに活用しているにすぎない。(中略)
プロパガンダは冷酷で、愚かで、無責任なときもあるが、それは人々がそのように行動するからにすぎない。プロパガンダはすばらしく、公正かつ理想的で、情熱的なものにもなりうる。(中略)
私たちが生き残るために、衝動や反射を必要とすることもある。問題はプロパガンダの刺激によって反射が起こるかどうかではなく、それが何を動かしたかであり、その理由である。
プロパガンダは論理よりも人々の感情に訴えかける。「反プロパガンダ」のプロパガンダでは、これを人々の合理性をむしばむものとして批判する。しかし著者は、プロパガンダが感情に訴えかけることがいかに合理的かを紐解く。そして、「感情に訴えかけるプロパガンダ」と合理的な思考に訴えかける言説との二項対立を解体する。真に区別されるべきは、その感情を何に用いるかという目的の相である。
実を言えば、感情への訴えかけは元来、非合理的ではない。むしろ逆で、重要な倫理的決定を行なうとき、感情への訴えかけは絶対に不可欠である。それがないと、私たちを取り巻く環境において、何が重要で、何が二次的なものか区別することができないのだ。人工知能は、厳格な計算能力から客観的な合理性を具現化しているが、しかし倫理的な決定と判断をコンピュータのアルゴリズムに明け渡したいと思う人間はいない。感情は私たちを周囲の世界にしっかりと結びつけ、関心を持たせるものである。(中略)
そのため重要な区別は、感情に訴えかけるプロパガンダと感情に訴えない合理的言説との間にあるわけではない。真に区別されるべきは、短期的な興奮や私利私欲のために感情を搾取するプロパガンダと、公的な行動を促し、差し迫った問題を浮き彫りにし、人間社会の諸事象へのより深い関与の機会を切り拓くために感情を用いるプロパガンダとの違いである。(中略)
どんなに善意による運動であっても、その感情への訴えかけが私利私欲に乗っ取られ、そもそもの望みとは違った結果を生むこともある。しかしそのようなことが起こったとき、運動を始めた人にできるのは、もっとプロパガンダをつくって、その目的や価値観を明確に伝えることだ。プロパガンダを根絶して否定的な感情を修正することはできない。私たちにできるのはそれに代わる違った熱狂を生むことで、その感情を弱めることだけなのだ。
現代が「冷酷で、愚かで、無責任な」悪しきプロパガンダにあふれていることを著者は否定しない。だが、それはプロパガンダ自体がそうなのではなく、そのような目的のために手段としてのプロパガンダが用いられているに過ぎないと言う。そして、そのようなプロパガンダに対抗し、社会をよい方向に変えるためには、わたしたちもまた手段としてのプロパガンダをためらってはいられない、というのがこの本の主旨だ。分断を生むためのプロパガンダではなく、協調を生み出すためのプロパガンダを身につけよ、と言い換えてもいいかもしれない。
もうそろそろプロパガンダの理論と批判も、スマートフォンとソーシャルメディア・アカウントを持つすべてのティーンエージャーがすでに知っていることに追いつかなければならないときが来ている。それはよくも悪くも、プロパガンダは社会を変えることができる術であるということだ。
私たちは未来を生きる価値がある世界に変えるプロパガンダを生み出し、それを受容する責任を受け入れる必要がある。絶えず説得のレベルを上げ、重要な問題に光を当てる斬新な方法を見つけ、激情や思考、自尊心を喚起してふつうの人々が共に行動する力を与える技術に打ち込んでこそ、私たちが生きるこの時代の課題に立ち向かうことができる。将来はプロパガンダがない世界ではない。私たちすべてがプロパガンダの技法を身につけることで、それが人間を支配する力を失っている世界なのだ。