“プロフェッショナル” と “エキスパート” の使い分けについての自分の考え。 大きくは、「プロフェッショナルとは自認」であり、「エキスパートとは他認」であると考えている。
プロフェッショナル
“professional” 専門的な は “profession” 専門職 から変化した語である。 “profession” には 公言や宣言という意味もあり、その元となっているのは “profess” という語である。
公言する、明言する、(…の)ふりをする、偽る、ふりをする、自称する、信仰を告白する、(…を)信仰する
さらに “profess” の語源を遡ると、ラテン語の “professus” に行き着く。もともとは宗教の用語であり、自身の信仰を神に宣言し、聖職者として身を立てることを公言することを意味したらしい。それが時代とともに転じて、専門性があることを公言すること、専門職に就くことに変わってきている。
profession は、動詞の profess とともに、「公に宣言する」という意味のラテン語 profiteor(プロフィテオル)の完了分詞 professus(プロフェッスス)からできた言葉である。昔は、「自分はこれで食っていく」と「公に宣言する」と、それがすなわち「職業」とみなされたのだろうか。たしかに、胸を張って「自分にはこういうことができる」と世の中に向かって「宣言すること」は、今で言う「プロ意識」とつながるように思われる。
つまりプロフェッショナリズムとは「自分は〜〜で身を立てる」「自分は〜〜で食べていく」ということの宣言であり、自認であり、覚悟であり、宣誓である。
エキスパート
“expert” 熟練者、専門家 は、“experiment” 実験 や “experience” 経験 とも関連のある語だ。 “experiment” と “experience” の両方につく “experi” という接頭辞はラテン語の “experiri” 試す に由来する。 漢字においても “験” が共通していることからも 試したことが経験となる 構図はわかりやすい。 そして “expert” は “experiri” の過去分詞形である “expertus” に由来するといわれている。 「経験によって熟達していること」というのが “expert” という語の原義である。
プロフェッショナルは自分から公への宣言であったが、エキスパートは 「熟練している」「賢い」「優れている」といった、第三者からの評価をその根底においている。つまり他者からの評価によってエキスパートであるかどうかというのは変わってくる。 このことを表現するのに哲学者 竹田青嗣の言葉を借りれば、エキスパートは「批評のテーブル」に乗せられるのだ。
実際、世の中にはエキスパートの認定プログラムや試験などがあり、わたし自身も Google Developers Expert として審査を経て認定されている。互いが互いを批評し、人類全体をさらに高い “expertus” な状態へ押し上げていくような、芸術に似た姿があるように感じる。
プロフェッショナリズムと省察的実践
プロフェッショナルは自認であると書いたが、誰も彼もがプロフェッショナルを自称してしまったとしても「すぐれたプロフェッショナル」像は人々のなか、時代のなかで確かに共通の認識がある。でなければプロフェッショナルが高い報酬のもと職に就くことは難しい。
アメリカの哲学者 ドナルド・ショーン によれば、現代のプロフェッショナルには 「省察的実践家」という像が求められる。
「現場で実践する専門家」の本当の専門性とは,現場の実践のなかに存在する「知と省察」それ自体にあるという.実践する専門家は自分のそれまでの知識や技術,能力,価値観を超える問題に直面した時,不安や戸惑いを感じる.この状況を突破するために,それまでの経験を総動員して何らかの行動を起こし,直面する状況に変化をもたらす.問題をなんとかしのいだ後に,今回直面した状況の変化を評価し,教訓(実践の理論)を導き出す.この繰り返しによって,「状況と対話」し,「行為の中の省察」を通じて,専門家は自ら学び,解決策を身につけ,発達していく.これがショーンのいう専門家モデル=省察的実践家である.
つまり自己の中の専門性を省察的実践によって育み、そしてその専門性に対する自己の人生の立て方を宣言するときこそが、人が「プロフェッショナル」になる瞬間なのだろう。プロフェッショナルは宣言して終わるものでもなく、人生をかけて省察的実践を続けていく限りにおいてプロフェッショナルであり続けられるだろう。