Marginalia

時間の交換レート

なにかに時間を費やすと、代わりに何かしらを得る。労働をすれば時間と引き換えに金銭を得られるし、遊びにいけば時間と引き換えに楽しさや思い出を得られる。何もせず休むことでも、時間と引き換えにやすらぎや健康回復などが得られる。あるいは、寂しさや虚しさを得ることもあるかもしれない。常に収支がプラスとは限らない。

寿命がある生き物にとって時間は有限であり、そのうえ、時間は使わずに貯蓄しておくことができない。だから、時間はできるだけすみやかに、できるだけ大きなものに交換したいと思うのは経済合理性を重視する人にとっては自然なことだ。その選択肢は人それぞれの機会・能力などによりさまざまあるし、その人にとっての価値判断基準によって同じ交換でもその価値は変わる。1時間働いて1500円もらう交換が高レートな人もいるし低レートの人もいる。それはその人の持っている交換可能性の選択肢の中での相対的評価でしかない。

自分の時間を最大限に利用したいと考えるなら、常に自身が持つ最高レートの交換を行い続けることになる。そこにはリスクヘッジも必要だろう。ひとつの交換手段に固執したことで別の可能性を見落とすこともあるし、交換レートが途中で変動することもあるからだ。だから、そのように考えるなら、常に自分の時間の交換レートを意識することになる。それは同時に、常に自分の価値判断基準を意識することでもある。今の自分にとって金銭・安らぎ・快楽・自己成長実感・他者とのつながり・その他諸々はどれほどの価値があるのか?時間はあらゆるものとの交換可能性がある。そのすべてを同列に並べて価値判断する「価格」を決めるのは、増やせず動かせず貯められない有限の時間という「通貨」との交換レートしかないのではないか。

タイムパフォーマンスという言葉が一般的になっているのも、多様な価値観が混じり合う社会のなかで、だれしもに共通する時間という「通貨」以外に、他者との共通了解をつくる足がかりがなくなってきているのではないかとも思う。一方で、経済合理性を重視しない生き方も当然ある。そのような他者とはどのように語らったらよいのか、何がそこで互いの価値を交換できる共通の通貨となるのか、まだわからない。